浅葱色の夢行 (mukou) 後編
ヒュンッ!
「まったくっ!!」
ビュッ!
「本当にっ!!」
鋭く木刀が空を切る音と、威勢の良い罵声が交互に続く。
ここは壬生にある八木邸の裏庭。
ちょうど何本か太い木が並んで立っている事で、女子姿のまま裾を乱して素振りをする
非常識とも言えるセイの姿を隠してくれている。
まったくまったく。
信じられない石頭なのだ、あの男は。
自分が大人しく「あ〜れ〜」などと敵に捕まっていられる人間じゃない事など、
誰よりも良く知っているだろうに。
もしもそんな事になるのなら、この命などいくらでも投げ出す覚悟はあるけれど、
自分の命が潰えたなら、祐太が狙われるに決まっている。
仕事の障りになるのなら、たとえ我が妻我が子とて切り捨てる男ではあるけれど、
けして心を痛めぬわけではない事を何より自分が知っている。
万が一でもそんな事になったなら、あの優しく情深い男はどれほど自分を責め、傷つくことか。
そんな思いをさせる為に、共に生きると決めたのではない。
共にあるのは愛しい男を守るため。
赤子と自分を両手に抱いて、幸せそうに目を細めるあの笑顔を守るため。
だから鍛錬が必要なのに。
動きにくい女子姿の上に、普段は懐剣しか持っていないのだから、
相手を倒そうなどとは考えない。
いくら自分が無謀でも、白刃振るって生きていた時期もあるのだ。
出来る事と出来ない事ぐらいの区別はつく。
勝つ必要は無い。
負けないように、捕まらぬように、自分と祐太の身だけを守って、
助けが来るのを待てればいいのだ。
その時間稼ぎのためにも、今の身でできる範囲の修練を積むべきなのに。
「まったく、腹が立つ! あのわからんちんの黒ヒラメっ!!」
ガツンッ!
勢いをつけ過ぎて振り下ろした木刀が地面を叩いた。
同時に背後から小さく噴き出す物音に振り向いたセイの目に映ったのは、
八木家の息子、勇五郎の姿。
「やっぱり神谷はん、沖田はんとケンカして飛び出してきたんや。お母ちゃん心配してたで?」
木の陰から顔だけ出した勇五郎がニヤニヤ笑っている。
この様子では無意識に叫んでいた文句のいくつかを聞かれていたのだろう。
恥ずかしさに「う、うん。まぁ」と返事にもならぬ答えを返すセイを気にもせず。
「お母ちゃんが、そろそろお茶にしまひょ、やて。行こ」
勇五郎が先に立って歩き出した。
「ふふふ、そうやったん。おセイはんも大変やなぁ」
八木家当主源之丞の妻である雅は、セイの話を聞いておっとりと答える。
新選組の猛者達が家に入り込んできても前川の家人のように逃げ出すこともせず、
共に暮らす事のできたしなやかで気丈な女性だ。
セイが実は女子だったと知った時も、口を開けて唖然としている源之丞の隣で
一瞬目を丸くしただけで「あら、まぁ」と、はんなりと笑った。
それ以降、何かと事ある毎に雅を頼りにするセイは、今日もここにいる。
妻としての心得、出産に関しての助言や不安の解消。
慣れない事に困惑するセイに手を差し伸べてくれた人だ。
すでに母は亡く、姉のような里乃とて子を生んだ経験は無い。
周囲に居る経験者といえば原田の妻のまさくらいだが、セイに先んじて生まれた子の世話で
セイの話を聞く余裕などなかった。
故に必然的にセイの妻としての在り方の師匠は、この雅となっていた。
「まぁ、沖田センセの心配もわからん事もあらへんのやけど・・・」
「でもねっ!」
「あぁ、ほらほら大きな声を出さんの。祐坊が起きるやろ?」
興奮しかけたセイを優しく宥める雅の膝には大人しく眠る祐太の姿。
この子は自分と二人きりの時以外自分の手元にいる事はない気がする、と
セイは心の中で苦笑した。
誰かがいればいつもその膝の上で、祐太もそれに違和感を感じることも無く
良く笑ってはよく眠る。
この図太さはあの黒ヒラメに似たのだろうと、自分の人懐こさを棚に上げてセイは思った。
「色々腹立つ事もあるやろけど、飛び出してきたらあかんえ。
ちゃんと話をしてお互いに思てる事を伝えんとなぁ」
「判ってるんですけど・・・」
「それでも気ぃが済まん時は、お茶に一つまみ塩でも入れてやったら、
胸がすぅとして次の日も笑えるようになるんえ?」
「は?」
セイの口がぱっかり開いた。
「ケンカせんような夫婦なんておへん」
くすくすと口元を覆って雅がセイの間抜けな顔に笑いを零す。
「そ、それでお茶に塩を?」
小さく頷く雅の様子に耐え切れないようにセイが爆笑し出した。
「あっははは、すっごくおしとやかで源之丞さんの言う事だったら
何でも聞いてあげる人だと思ってたのに。あっははは、そ、そんな事を
してたんですか?」
女子にあるまじき勢いでお腹を押さえてひーひー笑っているセイの背後から
穏やかな声がかかる。
「それは私も知りませんでしたよ。道理で時々妙な味のお茶が出てきたはずだ」
ピシリと固まったセイの視線の先では、セイの背後を見たまま雅が悪びれもせず微笑んでいる。
「女子の可愛い悪戯どす」
うふふと笑う雅を見て、源之丞も笑っている。
「まぁ味噌汁に砂糖を入れられるよりはマシだけどね」
思わず源之丞を振り返ったセイに照れたように答える。
「若い頃の話ですよ」
「そう。若い頃の旦那様のやんちゃへのお仕置きどしたなぁ」
その二人の言葉に、再びセイの笑いが止まらなくなった。
「それでですね、おセイさん」
ようやく笑いを収めたセイに向かって源之丞が口を開いた。
「お迎えがいらっしゃいましたよ」
源之丞が身をずらし開けた場所に、障子の陰から総司が姿を現す。
「総司様・・・」
困ったような嬉しいような複雑な表情のセイに、こちらも苦笑交じりに少し困った顔で
総司が手を差し伸べた。
「帰りましょう、セイ」
またいつでも来ればいい、と送り出してくれた源之丞と隣で微笑む雅の姿を脳裏に浮かべて、
彼らのようになれるのはどれほど先かと己の身を振り返る。
「まだまだ夫婦としては半人前ですものねぇ、私達」
「そうですねぇ」
八木家からの帰り道、眠る祐太を腕に抱いた総司がぽつりと言うのにセイも苦笑しながら返す。
「元々最初から変わり者同士の夫婦だったんですから、夫婦としての形だって
普通とは少ぅし違っても当然なのかもしれませんよね」
「変わり者、って辺りが微妙に引っかかるんですが・・・」
「だって月代のあるお嫁様と誰もに責められる甘味馬鹿の剣術馬鹿ですよ?
これ以上の変わり者なんてありますか?」
「確かに・・・そう言われれば否定できませんけど・・・」
それでもどこか悔しいのか、セイの足が速まり数歩前に出る。
それに歩幅を少し広げた総司がすぐに追いつくと、笑いを含んだ声音で言葉を続けた。
「いつか八木さんご夫婦のように自然な空気を出せるようになりたいですねぇ。
自然に穏やかに、周囲を癒せるような・・・そんなふうにね」
その言葉にはセイも黙って頷いた。
その頬は夕日を照り返して優しい黄金色に染まっている。
「できうる限りの時間をかけて、私達らしい家庭を作っていきましょうよ」
穏やかな総司の声が一歩先から聞こえる。
どうやら珍しく夫らしい言葉を紡ぐのが照れくさいようだ。
耳が赤くなっているのがわかる。
「千里の道も一歩から」
「はい」
照れ隠しからか総司が早口で言う言葉に、セイが楽しげに答える。
「習うより慣れろ」
「はい」
「蓼食う虫も好き好き」
「それ、やっぱり失礼ですよ」
「小人閑居して不善を成す」
パタパタと近付いて総司の袂を掴むと、セイは頬を膨らませる。
「それって馬鹿を暇にしとくと碌な事をしない、って事じゃないですかっ?」
「あはははは」
「あははじゃありませんっ! ひどいですっ!!」
えいえいと、総司の腕を叩くセイだが、たいした力は入っていない。
祐太を抱いている総司の腕だ、万が一でも赤子を取り落とさないようにという配慮だろう。
そんな攻撃を赤子を盾にして抑えるように、ゆっくりと総司が身体を向ける。
「だからね・・・貴女は暇にならないように、好きな事をやりなさい。
剣術でも医術でもね」
きょとんと総司の顔を見つめるセイの顔が、じわりじわりと紅潮していく。
「さっきも言いましたけど、元々変わり者の夫婦なんです。
そこらの男以上に剣が使える妻だって良いですよね」
赤子の身を片手だけで支えると、空いた手を涙を堪えるセイの頬に添えて
少しだけ表情を引き締める。
「それに確かに新選組の沖田の家族であれば、いつ危険が降りかかるかもしれない。
いつでも私が傍にいられない以上、貴女が身を守る術を持っている事は
私達の宝でもあるこの子の身を守る事にも繋がるんですよね」
総司の言葉にセイがポロリと涙を一粒零しながら力強く頷いた。
「私が一番隊組長だの鬼神だのには見えないと言われるように、あなたも阿修羅になど
見えないと言われる人になればいい。真の力は確かに秘めたままで」
「私はもう阿修羅になどなりません。きっとなるのは鬼子母神ですよ。
子供ではなくとも数多の命を散らせてきた身です。
それを悔いる事は無いけれど、命の尊さも知っている。
これからは赤子を慈しみ守る鬼子母神にこそなりたいと思います」
セイの言葉に総司が声をあげて笑った。
「あっははは、鬼の細君は鬼子母神ですか。何だか言いえて妙だなぁ。
じゃあ柘榴の時期になったら、どこかで頂いてきてお供えしましょうね。
私の血を求められないように」
「はい、楽しみにしております。鬼の旦那様」
再び肩を並べて歩き出した二人が楽しそうな笑い声を響かせる。
明日も総司は町のどこかの白刃閃く只中で、命を賭けたやり取りをするのだろう。
セイはそんな総司の無事を祈りながら、赤子を守っているのだろう。
未来の確約など何もないふたりだが、それゆえ今をこの一瞬を噛み締めるように慈しむ。
そして、その一瞬が呆れるほどに積み重なって・・・
いつか永遠になればいい。
見上げた総司が、覗き込んだセイが、穏やかに微笑んでいるから、
ふたりは言葉に出さず、同じ事を胸で祈った。
西の山間に沈み行く夕陽が明日の青空を予感させるように、一度眩しく輝いた。
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